Over826の立ち位置

前回の記事でアウトプットの習慣化を定着させたいということで、このOver826をその場の候補としている。
候補としたのは他にいくらでもあるということ。紙のメモ帳やデジタルの日記など手法違いだけではなく、自身の持つポートフォリオ(Over826)を含む。
ポートフォリオという言葉を使ったのはブログとするほど情報が個人的ではないと思い、イメージと異なるのでポートフォリオとした。視点は個人だが情報は個人ではないといった感じか。
Over826を今後どうやって運用していくかだが、いくつかあるポートフォリオの1つであるOver826は実際に私と会って過ごしている人にも知られている唯一の媒体となっている。
で、情報発信するにあたって今後誤解を生む部分もあると思うので今回は少し認知についての持論を展開しようかと思っています。
※今回も全て著者の写真です
とんでも持論

”勝手に誤解”されたくないという考えがある。
捻くれた感情論でなく認知についての話です。
というのも、極端な例を出すと
”土曜の早朝に私が近所のゴミを拾っていた”
この状況を見た時に色々考えると思う。
「ボランティア精神に溢れる」「いい人」「人のゴミを勝手に漁るやつ」「偽善者」「乞食」などなど色々だと思う、それは仕方ない。
その持ったイメージというのはバイアスに基づく。例えば爽やかな男前がやってるのと、不衛生なデブがやってるのとでは持つイメージが違うということ。
だがこれも仕方ない、イメージだから勝手に沸いてしまう。

問題なのはイメージとバイアスだけで人間像を勝手に構築して”理解”した気になること。
これは仕方なくない。
それぞれの要素は分離していて個別の情報である。この分離が出来ない人が多いのが現実で、それはまぁ構わないのだが、センスのない解釈を勝手に確定させて流布する厄介者に対しては明確に不快だなぁと。
そうなりやすいのが現実で防ぐことも出来ないが、ここにアウトプットを残すことで誤解の余地をなくせば楽だなと。
そのうえで自分の思考整理も出来るし、そのプロセスや情報が誰かの役にも立てばラッキー。
ということで理解や共感を求めているのではなく、単に私がやってること考えてることを情報として残すだけの場としようと思う。
となると、ブログというよりもポートフォリオの方が適切な表現となる。
是空とクオリアについて

ここまでの思想の理解には是空とクオリアについて多少知っていた方が良いと思うのでざーっくり書いときます。あくまで提示するだけなので理解とか共感はお任せします。
色即是空 空即是色
般若心経にもある仏教哲学の概念です。ざっくり言えば、
万物は相対性によって認知され存在を仮定している。
ということです。
つまりは1つ2つの情報で何かを決めつけるってのは無理があるって話です。
クオリア (Qualia)

哲学、心理学、認知科学で扱われる概念です。ざっくり言えば
個人の体験は個人が認知する唯一の質であり、完全な理解共有は不可能である。
ということです。
なので人の認知はその人だけの体験であるという原則から、他人の理解はそもそも不可能であるという大前提になります。
理解が不可能であるからこそ理解しようと努め、共感しようとする人間って尊いよねっていう根幹です。
逆に理解しあえることが前提で生きると、ズレが生じたときに説明がつかずヒステリックかます人になったりして、俗にメンヘラと呼ばれてたりします。
バイアス (bias)
心理学の有名な概念です。ざっくり言えば
人が物事を認識したり判断したりする際に、無意識のうちに特定の方向に偏ってしまう傾向。
ということです。
強弱はあれど偏見みたいなもんです。バイアスを持たないことは不可能ですが、自分にかかるバイアスそのものを認知することをメタ認知(認知の認知)とか言ったりします。
脱線してこんな内容に

本当は今後書いてく内容をざっくり書こうと思ったが、思ったより面倒くさい小難しい内容になってしまった。
こういうのを考えるの好きな人と無意味と思う人の二極化するものなので普段書いたり話したりはしないのだが、利益化するわけでもないし(多分利益化は出来るので仕組み的にはするけど)、結局自分の誤解を避けたいのなら思想の提示はあってもいいなということで書いてみました。
あまりこの手の話題に興味がない人からすると小難しいこと考えてるのとか思われかねないのだが、幼少期の頃に考えたキッカケがあり、歳をとってその体系が自分の中で出来上がったので今は考えてません。
幼少期

私は末っ子で上の兄弟(兄姉)とは歳が離れていて、鍵っ子として放置主体で育ちました。
その時に寝室の天井の照明の小さいオレンジ色の電球を見て
「この電球はオレンジ?なんで?」
「そもそもこれオレンジか?」
「というか皆がこれをオレンジだと思っているのか?」
「僕のオレンジは皆のオレンジと一緒なのか?」←クオリア爆誕
「それを確認する方法ってあるのかな?」
「なくね?」←実存的孤独爆誕
「でもオレンジって言葉を皆使うのはなんで?」
「他の色じゃないからか?」←是空爆誕
「だから言葉(言語)があるのか?」←社会爆誕
「まぁよくわかんないからボンバーマンでもやるかぁ」
って体験がありました。
そして今考えてるのは、今年の夏は下道で北海道の道東ついでにスカイダイビングをやっちゃうかどうかということ。
あまり幼少期から成長してませんでした。